こんにちは。Victoriaです。

今日は大晦日。
会う人ごとに、




「今年は大変でしたね~」




と言われて、




父の死の前後で、
なんか、
人生変わっちゃったの?っていうくらい、
いろんなことが違って見えるようになってびっくりなんだけど、




今日も、
朝からお墓参りいって、




改めて、
私と父って、
何かをじっくり話合ったことってなかったよなあ・・・
もっと時間とって話せばよかったよなあ・・・
なんて、
ちょっと後悔してたんだけど、




だけど、
よくよく考えてみたら、
ホントは話すこといっぱいあったのに、
うっかり機会を逃しちゃったよねっていうんではなくて、




たぶん、
どれだけ時間があったとしても、
私たちって、
何かについて議論するとか、
ましてや、
口論するとか、
ゼッタイなかったろうなって思うんだ。




そんな必要ないのよ、





それが、




遺伝




の力で、
たぶん、
ある意味、
家族の中で、
私ほど父のことを理解してた人間はいない、
だって、
父にそっくりなんだもの。
 




父と母は、
ほぼ50年間ずーっといっしょにいて、
なおかつ、
父の死の直前まで、
ありとあらゆることについて話合っていたけど、





私から見て、
とうてい母が父のことを理解していたとは思えず、




だって、
父の遺言とか、
聞いた直後に堂々と破ってたし、




今でも、
お父さんはこう言ったから、とか、
説明してくれるんだけど、





いや、
それはそんな風に解釈するんじゃなくて、
真意は別のところにあったと思うよ、
って思うことが多々あり、




結局、
あの二人、
あれだけ長時間いっしょにいて、
何をわかりあっていたのか?と真剣に思うくらい・・・





だけど、
ポイントはそこなんじゃないかと思って、





つまり、
お互いパッと見て、
パッとわかり合えたら、
それ以上、
何もコミュニケーションする必要なくて、




それこそ、
お互いの存在が、
空気のようになってしまうわけだから。




一方、
話しても、
話しても、
わかった感じがしない、





近いところまでは行くんだけど、
核心はつかない、




そういう、
もどかしい感じを、
実に50年間温存したまま、
ずーっとつきあえるっていうのは、
愛のなせるわざで、





・・・ということで、本日の結論 :





愛とは誤解の連続。






自分が相手を誤解してることに、
ぜ~んぜん気がつきもしない鈍感な人間か、





相手に誤解されてることがわかっていても、
どこまでも許せる心の広い人間が、





比較的、
愛に近いところにいられるのは、
そういうことかも・・・???






Victoriaでした。